加賀友禅の歴史
友禅染の祖・宮崎友禅斎
 「友禅染」という名は、京都で活躍した扇絵師の宮崎友禅斎に由来します。しかしこの友禅斎、有名なわりには謎だらけ。元禄年間(1700年前後)に京都の知恩院前に住んでいたことは分かっていますが、出生地については金沢とも、京都とも、あるいは能登ともいわれます。
 金沢で生まれたという説によると、加賀藩の紺屋頭取であった太郎田屋茂平の元で加賀染を習い、のちに京都へ出て扇絵師になり、晩年はまた金沢に帰ったとのこと。
 一方、京都出生説をとるならば、京で活躍した後に金沢へ移り、太郎田屋と協力して友禅の技法を広めたということになります。
 大正9年(1920年)に、太郎田屋の菩提寺であった竜国寺(金沢市東山2丁目)で友禅斎の供養塔が見つかりました。それによって、友禅斎は確かに晩年を金沢で過ごし、元文元年(1736年)に83歳で没したことがほぼ確実になりました。
ともあれ、流行の扇絵師であった友禅斎が衣裳の彩色をも手がけるようになり、金沢で加賀友禅の確立に一役買ったことに間違いはなさそうです。
加賀友禅の源流
 10世紀(平安時代)の朝廷の記録の中で、加賀は絹の産出国とされています。江戸時代には小松産の絹が「加賀絹」としてもてはやされますが、その源流は平安時代以前の遥か古代にあったのです。
 そして加賀友禅の源流は、その加賀絹に施された「加賀染」に求めることができるでしょう。加賀染も加賀絹と同じくらい古くからあったと思われますが、記録にあらわれるのは室町時代。「加賀染というは加賀の国より出る梅染のことなり、赤き色に黄味のある色なり」(『貞丈雑記』の1464年の記事)とあり、「梅染」という染め物の存在が分かります。ほかに、赤梅染や黒梅染という染め方もありました。
 江戸時代初期には、加賀染を施した加賀絹が前田家から幕府へ幾度か献上されています。そして5代藩主・前田綱紀のときには、但馬の国から招かれた茜屋理右衛門が「茜染」を開始。しかし理右衛門の死後には途絶えてしまいました。また、剣士として有名な吉岡憲法が京都で始めた黒染の「憲法染」が加賀に伝わり、艶を抑えた重厚な「加賀憲法染」として愛されました。こちらは長く大正時代まで続いたそうです。
 さて、梅染や茜染は無地の染め物でしたが、いよいよ模様染めの登場です。正保年間(1644〜1648年)頃に始められた「色絵紋」は、定紋の周りを花などの模様で囲むもので、「加賀紋」とも呼ばれる金沢独自のデザイン。そうして、加賀染は加賀友禅へと脱皮していったのです。
江戸時代の加賀友禅
 「加賀紋」と呼ばれる独特の彩色を施す友禅的な技法は、江戸中期の元禄時代(1700年頃)には完成していたとみられます。そこには宮崎友禅斎の技も加わっていたでしょう。また、染料のにじみを防ぐための糊の進歩が、微細な友禅模様を生んだともいわれます。ともあれ、梅染や茜染の伝統に、憲法染の趣向、そして色絵紋の意匠など、加賀の風土の中で育まれてきた感性が昇華されて誕生したのが加賀友禅なのです。
 18世紀に発行された数々の雛形本には「本かがそめゆうせん」や「かが夕ぜん」「加賀夕仙」「加賀友ぜん」などの記述が見られます。加賀藩が振興した多くの伝統工芸と同じように、加賀友禅も通人好みのアイテムとして流通していたのでしょう。
 江戸時代後期には、パターン化された図案を使っての染色が全国的に行われましたが、金沢では絵師が描く絵模様にもとづいて友禅が染められていました。当時の図案帳に残されている下絵案は、模様というよりも絵画そのもの。加賀友禅の基本精神が見てとれます。
明治・大正時代の加賀友禅
 明治になると化学染料が開発され、現在の型友禅や捺染プリントの基礎となる染色技術が生まれました。しかしもちろん手描き友禅の技術と伝統も維持され、多くの優秀な絵師が誕生。現代作家の何人かはその流れを汲んでいます。
 大正9年(1920年)には、金沢市東山の竜国寺で宮崎友禅斎の供養塔が見つかり話題になりました。そのころ東京や大阪の百貨店が加賀友禅の売り出しに力を入れていたこともあり、「加賀友禅」の名は徐々に全国に浸透していきました。
昭和から現代、そして未来へ
 世界的な不況と相次ぐ戦争……昭和の幕開けは過酷でした。そんな時代の波は加賀友禅にも襲いかかり、染色の依頼は少なくなるし、展覧会を開いてもあまり売れない状態。さらに徴兵によって優秀な人材が次々と戦地へ。
そんな中、文部省は数名の芸術保存者を決めて、技術維持のために必要な物資を特別に配給。そうやってなんとか伝統の灯を消すことなく、加賀友禅は生き残ることができました。
 終戦後、東京・大阪の百貨店が加賀友禅の復興を提言。金沢ではそれを受けて、加賀友禅の素晴らしさを全国へ発信しようと、昭和28年(1953年)に宮崎友禅斎生誕300年祭を開催。明るい未来への第一歩を踏み出したのでした。
 昭和30年(1955年)には、故・木村雨山氏が重要無形文化財保持者に認定され、おかげで加賀友禅の知名度もグンとアップ。金沢市専光寺町に「協同組合加賀友禅染色団地」ができた昭和40年代には生産量が大幅に増え、加賀友禅ブームが到来しました。
 そうやって市場規模が大きくなっても、加賀友禅は合理的な分業をあえて避けてきました。伝統の技術の上に、今の作家や職人たちの心を乗せた芸術品でありつづけること――そこに加賀友禅の未来があると信じるからです。
手描き加賀友禅創作工房「彩夢庵」
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